何も思わないこと
オードリーのオールナイトニッポン 2015年3月7日放送にて若林さんが冒頭でぶちまけた悩み『最近何も思わないこと』。この悩みはこの回に始まったことではなく最近ちょいちょいラジオにて吐露されているのだが、私中条も多分に共感するのです。
オードリー若林さんと完全にシンクロしているとは思わないのですが、やはり10代20代前半に比べて『他人に自分の気持ちをわかってもらいたい』という欲求が無くなっていることに気が付きました。むしろ邪魔だと結論付けている。
よって人に気持ちを伝える機会を作ることに手を抜いているし、すべてを伝えるという努力に関しても手を抜いている。
むしろ邪魔だと結論付けている。
- 他人の話を真剣に聞く大人はいないことを知る
- 大人はすでに人格形成が成熟しているので守備範囲外の価値観を許容できるようになっていない(そんな人が大多数であること)
- 口は災いの元(皆が皆まともな人格ではない)揉め事の火種になりかねないことを知る
よって、一生懸命自分の気持ちを伝えようと努力するだけ大きな労力と時間が費やされる割に起こるムーブメントは無どころか未知数の不利益になることも。金持ち喧嘩せずではないが、いいように言えば『みんな自分のことで精一杯』なんだと。
逆に自分が受け手になったとして仕事以外で他人の人生に踏み込む程一部を背負う気概もないし、そういうのが面倒だしオフに時間をさいたりするのも嫌だし。
要は、深く関わりあうことを面倒だと思っている
前段階の軽く関わりあうことすら。
紹介したオードリーのラジオでも同じような結論に至っている。
無関心は最終的な自己防衛。若林さんは「そうは思いたくない」と言っているが。
人を知ることを拒否しているわけではない
オードリー若林さんは何も思わないといいつつも新日本プロレスのオカダvs棚橋戦で涙したエピソードを話している。自分が当事者になるのは非常に疲れるが、人の感情の起因やぶつかり合いほど見ていて興奮するものはない。程よい距離感で感情移入できる対象に対しての好奇心は止められないのではないか。
関心の対象をしぼっていることに危機感
人生を損しているのでは?もっと熱い生き方があるのではないだろうか?
可能性を狭めているのではないか?
そろそろ覚悟を決める時がきたのではないか
30年も生きてきて取捨選択をすることを悩むとかナンセンス
無関心に危機感とかただのモラトリアム
人生折り返しにきてそんなモラトリアムは捨てるべき
甘え
自分に無理なく取捨選択できている。
ポジティブに考えれば無駄なく生きているとはならないだろうか。
その点、一見無駄に思えるブログ再開をなぜ拾う結果になったのか。
無関心の中に感情が起ったものに対して自己分析する楽しさ。
自分の考えをまとめておくことによりいざという時に上手に吐き出す際の訓練になる。
他人に無関心でも、自分にもっと関心を持とうよってことです。
なぜ自分の利益にならないことを始めるのか
あの日々は本当に自分の利益にならなかったのか
twitterで一言ばかり捻り出していたので、だいぶ長文を書こうと意気込むのも久しぶりで。しかもわざわざデニーズに来て飲み放題のコーヒーを頼み長居を決め込む気満々。32歳非常に恥ずかしい。U40と書いても恥ずかしい。
店員のお仕事ですか?みたいな視線も恥ずかしい。うんこ製造しにきてるのに。
ドリンク無料券があったからとか、晩飯まだだったとか、焼きチーズカレーハンバーグドリアにハマってて給料が入ったし欲望のまま食いまくろうとか言い訳はいくらでもあるのだが、どれもまた小さな小さなおちょこメンと言われかねない幸せを披露することになり、どちらにしても恥を晒す結果になるのだ。意識低い系・負けを開き直ってる系の日常を赤裸々に書き綴る行為というのはどう転がっても惨め。
そんなことはわかりきっているにも関わらずこれからなんの利益もならない恥晒しを始めようと意気込んでいるのだ。
まず、きっかけは「はてなラボ 大チェッカー」の誕生。
RSSリーダーはwebサービスにおいてお金にならないという理由で最も便利なサービスを提供していたgoogleが撤退。私もしぶしぶ他のサービスへ移行したものの不満まみれのため諦めた代物。
Q:そもそもRSSリーダーというサービスとは?
A:巡回先を指定すれば自動で巡回先の記事を収集して見やすく表示をし
嗜好に合った情報をみつけやすくしてくれるサービス
利益にならないといわれているにも関わらず本気ではてながRSSリーダーを作りたいという行動にとても感銘を受けました。
そうして大チェッカー用の購読ブログを探すべくいろいろ巡るとどうしても頭をよぎるわけです。
自分も長文をひねりだしてた時期があったな
高校2年の頃、侍魂にあこがれてフォントをいじりすぎて読む気も失せるようなオチの弱々な日記。フォントをいじれば人気者になれると思ってたよくいる痛い高校生。
大学に入学してからNTTがはじめたサービスDoblog。(2003年10年前か…)
そして、mixiのβサービス開始(2004年)
imodeの携帯電話で小さいメール作成画面に打ち込み。
画像は添付することで立派なブログが完成する当時最先端のサービス。
これならどこからでも毎日どころか一日何度でも更新できるすげぇ!
→スタートダッシュの優位性はあるもののみんな始めてみんなに埋もれる
→この程度の反響ならやめるで!ええんか?!やめたらぁ!
中身も「報われない大学生が抱えるストレスをぶつける」といったもの。
怒りに身を任せて湯水のごとく湧き出てくる赤の他人の悪口をメインに正論と常識を盾に文字を使って例えてはふざけるふざける。実生活からネット、ニュースに対して重箱の角をつつきにつついて書き散らす。
オーディエンスはそれなりにいて評価もされましたが自分の目指した結果には程遠く考えることをやめました。
人によって違いはあれど、頭や心で起きたモノを伝えようとアウトプットするのは非常に難しいことで、糞ブログであれ『文章を構成する=100%伝えるための自分なりの努力』がそこにはある訳です。大変。
32歳の自分が他人の書き物と向き合った時に当時の体験を思い返すことは避けられなかった。あれから10年経って酸いも甘いも味わった上で再評価。
インターネットでテキストサイトの雄としてちやほやされたいとはじめた『脳内アウトプット作業と脚色』の日々。一流になるための大した努力もしてないくせに読者のせいにして不貞腐れてやめたあの日々は本当に自分の利益にならなかったのか。
利益にはならなかったけれども自分にとって有意義な時間だったな
この結論になった理由は次回に。